日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

#08 めぐり合ってしまったら

風邪をひいた。

頭蓋骨にセロハンをかけられたみたいだ。

外の世界がいつもより少しぼやけている。

 

本を開く。

解剖標本の保存を研究する博士が登場する。

とある夫人の家に訪れる。

彼女はとてもフレンドリーな人柄だが、

博士からすれば、彼女のもてなしなどどうともない。

標本を、少しでも早く見てみたい、その一心なのだ。

 

それを目にしただけで、触れてみたくなるもの。

手にとって、すみずみまで眺めてみたくなるもの。

構造を知りたくなるもの。

思いを馳せて、満たされた気持ちになるもの。

そんなものにめぐり合えたら

ほかのことに気をまわしている時間なんてないだろう。

 

めぐり合うまでにはたくさんの寄り道が必要かもしれない。

しかし一度めぐり合ってしまったら、もうわき目を振ってはいけない。

自分で道を切り開いていくのみだ。

 

 

#07 緩急をつける

断章は緩急が激しい。

情報のたくさんつめこまれた箇所と

息抜きていどのちょっとした描写や小話がはめ込まれている箇所がある。

なんだか日々の生活みたいで、それは私を飽きさせない。

人生に飽きないためには緩急をつけるのが一つのコツなのだ。

 

この物語も緩やかな描写が続いていた。

毎日読んではいたけれど、

特に書くことが無いと思ったので更新しないでいた。

 

エリックという新たな人物が登場する。

彼は船乗りであり、定期便の運転手だが

ある日突然航路を変更する。

みな、仕事に遅れるなどと騒ぎだす。

しかし少し経つと落ち着いて

遠ざかる島を見ながら穏やかになり、

空の晴れ方や

雲の合間から海へさす光の束をのんびり眺めるようになる。

 

まるで電車での移動のようだ。

イヤホンを外して

頭を空っぽにしたまま

のんびり休んで外の景色の変化に目をやる。

ときどき何もしないことをする時間を作りたい。

 

 

 

#06 占いに頼らなくて良い

知っているってなんだろう。

今日、「ユカタン半島風スープ」という料理に出会った。

ユカタン半島って知っている?」

と聞かれて、私はうなづいたけれど、

そういう名前の島が存在することと

位置はメキシコのあたり、ということしか知らない。

知っていることと聞き覚えのあることを、混同している。

本が好きでも、最近は流し読みが多かったので、後者ばかりが増えている。

 

***

 

本を開く。

主人公の視界に入る場所や物が、旅行にからめて意味づけされ、説明されている。

辞書みたいに。

空港、化粧品、オリジナルとコピー、列車、部屋、人間と動物の関係性……。

私たちはよく、個々のエピソードをつなげて、意味をもたせようとする。

たとえ占いに頼らなくても、

何でもないものを眺めて、回想して、つなぎ合わせてみるだけで、

自分がいま最も欲しているものは、見えてくるだろう。

 

もう少し読み進める。

" 私 " は、書くという行為は破壊することだ、と言っている。

書かれたことは、色あせる。

すごく簡単に言うと、鮮度がなくなるということなんだろう。

それでも、日記を書く人、旅行記を書く人

(媒体は紙でもブログでも、twitterでも良い)

何でもいいから日々のことを書き留めておきたい人はたくさんいる。

そういう人たちはみな、

自分の欲するものを少しでも減らすために

書き記す行為をしているんだろう。

 

やがて書きたいと思うことが何もなくなったら

その時に初めて満たされた状態になるのかな。

 

 

 

#05 背負っているものが言葉に出る

クニツキの妻子はまだ見つからない。

捜索の合間に、また小さなカフェに入る。

この小説では、よくカフェと思われる場所で男たちがビールを飲んでいる。

ポーランドの風景なのだろうか?

そこでは誰も彼に関心がなく、安堵する。

人々の顔の、細かい差異の一切がぼやけてゆく。

クニツキはそこに加わり、どこかに連れて行ってもらうことを願う。

 

自分が、誰でもなくなること、

何も背負わなくて良い存在になる心地よさは、よくわかる。

都市にただよっている、独特の安心感だと思う。

じゃあ、その都市に生活を置き、

そこに役割を生み出してしまったらどうすれば良いんだろう。

そうやって人は、もっと遠くへ旅に出るのかもしれない。

 

場面は変わる。

„私”が再び登場し、旅に出かける。

彼女は、出入国でパスポートにスタンプを押され、

ホテルのフロントで鍵を渡され、

はじめて一人の存在として表れはじめる。

私たちは、場所や、言語、一日の中の時間、都市、気温とか

そういったものに従属している。

つまり、不変の存在ではない。

 

じっさい私が人との相性を汲みとる際、

その大きな判断材料になっているものの一つに、言語がある。

言葉は、人の日ごろの心がけをよく反映している。

祖父母は、江戸弁で威勢よく話す。

彼らのあけすけな性格は、怖いけれど私は好きだ。

しかしそれを間近で見ていた彼らの娘は、人一倍丁寧な言葉で話すようになった。

よって、人一倍丁寧な言葉で話す男と結婚した。

そして私が実際に惹かれるのは、

男女ともに、穏やかに、慇懃なほど丁重に話す人間だ。

 

今日はどんな言葉を選択して、どのように話しただろうか。

 

 

 

#04 時間との距離がない

本を開く。クニツキという男が突然あらわれる。

断片なので、唐突さには耐えなければならない。

そういえば今日、渋谷区立中央図書館まで散歩をし、緑に囲まれた小道を見つけた。

両脇に花が植わっていて、雨上がりだったので甘くやわらかい香りが立ち込めていた。

「小道が好きなの?」ときかれたけれど、そうではない、

唐突に良いものと遭遇することが好きなのだ。

 

場面は、クニツキが車から突然きえた妻子を探しているところから始まる。

クニツキは、2人が消えてから、どれくらいの時間が経ったか分からなかった。

時間を確認しなければならないなんて

2人がドアから出ていくときは知らなかった。

何も考えていない状態に、満足していた。

 

時間が喪失する感覚は、一種の快楽状態だ。

時間との距離がないことこそが、歓喜の定義なんだろうか。

 

クニツキはカフェで出会った男に協力してもらいながら、捜索をする。

時間がさっきまでとは違う風に流れているのを意識する。

時間は、連続するエピソードからできていることを知る。

 

私たちが時間が欲しいと願うとき

それは時計の針のことを指すのではなくて、

きっと、時間を忘れるほどの、何かしらのエピソードを欲しているんだ。

 

 ここで本を閉じる。

 

 

 

#03 失敗を見つける

仕事を持つと、自分の性格上の欠陥が失敗となって浮き彫りになる。

書類作成、期日管理、人間関係……

誰だって思い当たる節があるだろう。

本当はただ思考して、問題点を解消すればいいだけなのに

ミスを起こすたびに悩んでしまうのはきっと、

その失敗こそが自分と切っても切り離せない性質を示しているからなんだろう。

 

***

 

„ 私 ” はいつも、不完全なもの、欠陥のあるもの、壊れたものに惹かれる。

人は誰だって、暴くことが好きなのだ。

そういえばバタイユも、同じようなことを言っていた。

というか、彼の書物ではその主張しか理解できなかった。

 

意識の陰に存在するけれど、視界からは逃れていこうとするものを、みんな捉えたがる。

欠陥があるけれど、好きになる、のではなく

欠陥があるから、人やものを好きになるのかもしれない。

 

主人公は、「なめらかなフラシ天のソファから突き出たスプリング」とか

「普通ではない奇妙なリンゴ」のような、

間違いや失敗の跡を追って、辛抱強く旅をしている。

 

失敗はきっと、自分自身を見つけ出すチャンスになるんだ。

 

 

#02 痕跡をよせあつめて、地図を更新する

街は動かない。

ずっと、そこにある。

ただ、出来事を置き去りにしたまま。

 

„ 私 ” が学んだ学部の建物は、戦時中、ナチス親衛隊の本部が置かれていた。

この場所は、本質的には死者に属していたのだ。

ふちがすり減った階段、足跡でいっぱいの廊下。

ありとあらゆる空間に、痕跡がのこっている。

 

たしかに街についてしまった痕跡というのは根深いし、

それとおなじくらい、自分でつけた痕跡だって払拭しがたい。

特定の人としか訪れたくないような街だってあるし

一人きりで居たい場所だってある。

たぶん、誰かと同じ場所を訪ねても

頭のなかでつけ足される地図の様相は、おおきく異なっているんだろう。

 

„ 私 ” は大学で、論理は自分を守るための盾や鎧といった武器になることを学び、

人は、塔や要塞に還元されうるものであると気づいた。

つまり、人は、一つの小さな王国なのだ。

 

頭の中なら、時間も距離も超えて、自分だけの世界をつくることができる。

なるべく鎖国を防ぐこと、同時に、更新を怠らないこと。

そして、保護しておくべきと判断した地区もときどき覗いて、手入れしてやること。

 この行為はきっと、日々を刷新して

エネルギーを生み出すに違いない。

 

また一つ断章を読み終える。

本を閉じる。