#01 どこへも行けない
できるだけ、ゆっくり読み進める。
先日、約3か月ぶりにピアノを触った。
何も弾けなくなっていた。
まったく自分の指ではないようだった。
かろうじて、練習に時間のかかった曲だけは何となく指が覚えていた。
丁寧に寄り添えば、自分の一部となってくれる気がする。
焦って結論ばかり欲しがっては身にならないのだ。
たぶん。
***
物語は、幼い „ 私 ” が留守番をきっかけに、自分の存在を認識することから始まる。
夕方、窓台にじっと座って、闇の露が降り積もるのをただ眺めている。
世界のはずれにいるような感覚だ。
自分の輪郭が、世界と „ 私 ” を分け隔てている。
これが、俗にいう「閉塞感」の正体なんだろうな。
動かないことで、感覚が研ぎ澄まされて
自分の外には世界が広がっていることを認識する。
私も、仕事でデスクと向きあっているときとか、
病院で順番待ちをしているときとかは、似たような気分になる。
真に逃れられないのは、その空間からではない。
自分の身体からなんだ。
じゃあ、移動し続けることはどうだろうか。
場面が切り替わり、„ 私 ” は川と出会う。
止まることのない、流動性の象徴だ。
動き続けることは、自由で気ままで、高潔に見える。
しかし、川は毎年高い通行税を徴収していた。
溺死者だ。
溺死者は、水流にもまれ、削がれ、顔の特徴を洗い流されてしまう。
移動し続けることで、自分の形を失ってしまうとしたら、
動き続けることに、意味はあるのかな。
それってただ、スピードに酔いしれたいだけなんじゃないかな。
ときには振り返ってみたり、別の川をのぞいてみたり
池とか湖とかに足を浸してみることも、必要なんじゃないかな。
自分のペースで、あらゆる領域に触れてみる。
今日はここでおしまいにする。
少しずつ、身にするのだ。
#00 『逃亡派』と毎日つきあう
近頃、目標を定めづらくなっている。
よりよい人生のためにと、生きるうえでそれなりに選択肢を増やしてきた。
結果、一番やりたいこと、最も優先したいことの見分けがつけにくくなってしまった。
山手線のようにグルグルとまわっている。
ときに選択を誤って、大切なものを手に取れなかったり、振り落としてしまっているかもしれない。
じゃあ、私がこれまで大切にしてきたこととは、いったい何だったのだろう。
幼いころから、大体いつも本を読んでいた。
嘘つきな私でも、読書が好きな気持ちは本物らしい。
そういえば最近、読書をなおざりにしている。
振り払う人々(キニャール『約束のない絆』『アマリアの別荘』)
まだ訪れたことのない場所、これから訪れるかもわからないような場所がある。
書物は、そういったところに、自分ただひとりで潜り込ませてくれる。
異国の、切りたった崖に聳える街の路地とか、オオカミしかいないような冬の寂しい森とか。
しかも、他人の視点を借りることが可能、つまり、別の人生を追体験できるのだ。
複数の人生を胸に宿すことができれば、他人を羨ましいと思うことがなくなる。他人に無関心でいることもなくなる。
私が読書を好む理由のうちのひとつになっているとおもう。
今回手に取ったキニャールの作品は、静謐で美しい。流れる時間をズームアップして、細やかに見つめると、人物の美しい佇まいがとたんに立ち昇る。
„ ……舟形の紙の容器におさまっている完全に季節はずれのイチゴを見つめた。イチゴを一粒つかみ、そっと口に入れ、香りを自分で確かめたいという誘惑に勝てない。
クレールは目を閉じ、味わった。
ほとんど水っぽいだけのイチゴを味わっていた時、ある声が耳に入り、心がじんとした。クレールは目を開いた、振り返った。…… ”(『約束のない絆』、水声社、16頁)
景色や物事によく注意を払うと、世界は広がりをみせる。
自分の内に流れる時の進みまで、スローモーションに組み替えてしまう。
自分の中に世界と時間が編み出されることこそ、豊かさの証であり、そのことをキニャールは再認識させてくれる。
ここで取り上げる『約束のない絆』と『アマリアの別荘』は構成がよく似ている。
40歳そこそこの、清らかで美しい女性が、家族や住み慣れた街から去り、海辺に身を潜める話。
彼女たちは様々なものを振り払いながら移動し続ける。
『アマリアの別荘』の主人公アンは夫との離婚について、一人の男と別れるのでなく、みずからの情熱と別れることである、と考える。
また、友人以上恋人未満のような関係性のジョルジュに彼女は恨み言を浴びせられる。
「君はぜんぶ家のものを売り払ってしまったというのに、僕のほうは亡くなったママの家の片づけがまだ全部終わってない」
これに対してアンは
「あなたはまだ目いっぱいの時間を費やしていないだけの話よ」
というふうに切り返す。
自らの情熱を生きるひとつの方法、それと別れることは困難だ。
時間がかかって当然なのだ。
だからこそ、時の流れに身を任せるのではなく、自分がめいっぱい時間をついやす必要がある。
そして、上手に離別ができた人はめでたく、孤独状態になる。
『約束のない絆』だと、六回鬱を患ったポールは、八年間分析を続けてまっとうに生きられるようになってから外に出たが、誰も彼を待ってはいなかった。
彼は前より孤独にはなったけれど、前より不安ではなく、自由になった気がした。
「そこでぼくは自分の足を、まあまあしっかりした、かなり冷たいが、美しい光に覆われた大地みたいなものにつけてみた。その光の透明なことと言ったら、いわば外の世界の無限な透明さだった。」(『約束のない絆』、水声社、99頁)
ポールは、これまでのしがらみをすべて振り落とし、一種の解放感に包まれたのだ。
ひとりでいること、ではなく、ひとりでいられるということの喜びがある。
孤独になって、新たに世界の色を見つけることができる。
逃げることは再生につながるらしい。
また、人は逃げ続けたとしても、自分に蓄積された時代と別れることはない。
実際、『約束のない絆』のクレールはこれまでかかわってきた恋人、シモンが死んでもなお彼のことばかり考えていたから、けっして独りではなかった。
アマリアの別荘では、孤独がテーマとなっているが、約束のない絆では、登場人物たちは誰も理解し合えないのに、不思議と繋がって支え合っている。
必要が生じれば、その際にまた各自の孤独を持ち寄って、何となくよせ集まって生きれば良いのだ。