日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

休むことは弛緩すること

お昼、夫がスマホを見ている隙に、彼のお皿からサラダをつまみ食いしていると「関東地方は明日から天気が崩れるらしいよ」と言われた。

外を見るとお日様が現れはじめたので「梅雨入り前に、青空の下で読書を思いっきり楽しまないと!」と謎の義務感が生じ、夫にレジャーシートを持ってもらい、コーヒーを淹れてもらってタンブラーに注ぎ、外に飛び出した。

 

新宿御苑へ向かう道中、濃い青色の紫陽花を見つけた。

学生のころは薔薇とか百合とか、花そのものの主張が激しく、近づくと良い香りを放つ花が好きだったけれど、歳を重ねれば重ねるほどに、紫陽花の楚々とした魅力にも惹かれるようになってきた。

この手毬のようにコロン、としたフォルムの、なんとも愛らしいこと。

近づいてみると、私の手を広げたくらいの大きさで驚いた。

紫陽花だって、近づいてみればそれなりにちゃんと主張はしているのだ。

 

 

「そうか、もうツツジから紫陽花の季節に変わるねえ」なんて夫と話しているうちに、新宿御苑に到着。

芝生の上にレジャーシートを広げ、木の下でゴロンと寝そべると、たちまち本はいらなくなった。

流れていく雲をぼーっと眺め、鳥の鳴き声に耳を澄ませていると、活字を追って頭の中で情景を組み立てる時間が惜しく感じるほどに、心の緊張が緩やかにときほぐされていくのが分かった。

周囲の人たちも皆「私、その時とても幸せで……」「シカゴ、すごく良いところだったよ。楽しかったなあ」なんてふうに良い体験談しか話していなかった。青空や草木といった素朴な自然は、前向きな話題を掘り起こしてくれるのかもしれない。

 

帰りに、商店街のカフェに寄った。

中に入ると驚いたことに、客層たちの大半は大学生らしき若者たちだった。

そこは、学生たちが何時間も実のない話をして居座れる、明らかなたまり場になっていた。

その完全に弛緩しきった空間で、私にもかつて時間に追われない時代があったことを思い出した。というかむしろ、その状態こそが人間の自然な姿なんじゃないかなあ、とさえ思う。

自分の所属とか役割を忘れ去って、ただ弛緩すること。これこそ「休む」って行為なんじゃないかしら、と思った一日でした。