日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

『ぼくらが女性を愛する理由』

当時ぼくは二十六歳で、それまでのところ、人生では何一つ悪いことはしていないと本気で思い込んでいた。もっともっと情けないことに、それから十年ほど経った後でもまだこのばかなことを信じていたのだ。これはぼくがなかなか成熟できなかったという証拠であり、自分のまわりや自分の身の上に起こっていることをわずかずつでも理解し始めるのにどれほど骨が折れたかという証拠である。

*1

ミルチャ・カルタレスクというルーマニア人の作品を読んだ。

どうやらルーマニア村上春樹的な存在と見なされている作家らしい。確かに、自分のために書かれた作品という味わいがあって、村上春樹を読んだ際に受ける印象とよく似ている。

私は、自己治癒的に描かれた作品は好きだ。正直な文章には手触りがあるし、説得力もある。綺麗事がなく、後悔や懺悔が生々しいので、自分自身を離れて他人の思考に乗り移ることができる。

翻訳小説を読んでいると時代や国、性別が違えど人の悩みは大体似ていることが分かって安心する。

ただ、悩みの見つめ方に大きな違いが現れる。その土地が培ってきた風土や政治的境遇、個人的な立場の違いが色濃く反映されている。だからこそ私は異国の物語に惹かれているふしがある。

 

「この都会全体が、頭の中で遊ばれるただのゲームなんだと思わない? いい、私には意味のあるものなど何もないの、ほんとうに存在するものなどないの……。」

*2

この夢見がちな女性が秘密警察に入ってしまう短編がほの暗くて痛ましかった。結局、私たちは現実には勝てない。というより、勝てない困難は誰しもに降りかかってくる。後悔も付きまとう。生きていれば色々あると思うしかない。陳腐な精神論のようだけど、自分だけが可哀想だと思わずにすむ魔法の呪文のようだとも思う。

本書は、魔法の呪文を自分なりに沢山考えたり探したりすることのできる作品だった。

 

 

 

*1:『ぼくらが女性を愛する理由』p58より抜粋

*2:『ぼくらが女性を愛する理由』p50より抜粋

休むことは弛緩すること

お昼、夫がスマホを見ている隙に、彼のお皿からサラダをつまみ食いしていると「関東地方は明日から天気が崩れるらしいよ」と言われた。

外を見るとお日様が現れはじめたので「梅雨入り前に、青空の下で読書を思いっきり楽しまないと!」と謎の義務感が生じ、夫にレジャーシートを持ってもらい、コーヒーを淹れてもらってタンブラーに注ぎ、外に飛び出した。

 

新宿御苑へ向かう道中、濃い青色の紫陽花を見つけた。

学生のころは薔薇とか百合とか、花そのものの主張が激しく、近づくと良い香りを放つ花が好きだったけれど、歳を重ねれば重ねるほどに、紫陽花の楚々とした魅力にも惹かれるようになってきた。

この手毬のようにコロン、としたフォルムの、なんとも愛らしいこと。

近づいてみると、私の手を広げたくらいの大きさで驚いた。

紫陽花だって、近づいてみればそれなりにちゃんと主張はしているのだ。

 

 

「そうか、もうツツジから紫陽花の季節に変わるねえ」なんて夫と話しているうちに、新宿御苑に到着。

芝生の上にレジャーシートを広げ、木の下でゴロンと寝そべると、たちまち本はいらなくなった。

流れていく雲をぼーっと眺め、鳥の鳴き声に耳を澄ませていると、活字を追って頭の中で情景を組み立てる時間が惜しく感じるほどに、心の緊張が緩やかにときほぐされていくのが分かった。

周囲の人たちも皆「私、その時とても幸せで……」「シカゴ、すごく良いところだったよ。楽しかったなあ」なんてふうに良い体験談しか話していなかった。青空や草木といった素朴な自然は、前向きな話題を掘り起こしてくれるのかもしれない。

 

帰りに、商店街のカフェに寄った。

中に入ると驚いたことに、客層たちの大半は大学生らしき若者たちだった。

そこは、学生たちが何時間も実のない話をして居座れる、明らかなたまり場になっていた。

その完全に弛緩しきった空間で、私にもかつて時間に追われない時代があったことを思い出した。というかむしろ、その状態こそが人間の自然な姿なんじゃないかなあ、とさえ思う。

自分の所属とか役割を忘れ去って、ただ弛緩すること。これこそ「休む」って行為なんじゃないかしら、と思った一日でした。

 

選ぶ本でその日の調子がわかる

大きな規模の本屋さんが好きだ。

落ち込んでいるときなんか特に、一反木綿のようにフラフラと入ってしまう。

本屋にいると、誰とも話さなくて良いのに刺激的な出会いが多くて非常に良い。

つい先日なんか『誰でもできるのにほとんどの人がやっていない 科学の力で元気になる38のコツ』という刺激的なタイトルの本を買ってしまいました。最近、寝る前に「科学の力使っちゃうぞー!!!」と叫んで読んでます。この瞬間、正直元気が出ています。

 

あと、なんとなく目についたり手にとってみる本は、その日の自分をよく反映しているとも思う。

疲れているときに買った本は、のちのち家で開いたときに自分の趣味とかけ離れた内容だったりして驚くこともある。

人格なんていい加減な概念で、自分で思うほど一貫しているわけではないということがよくわかる。

 

昨日、新宿紀伊国屋本店で『あなたを想う花』という本を買った。

これがとても美しい本で、どのページをめくってもゆったりとした情景が心に流れ込んでくる。

そうかと思うと、ふいに力強い一文が現れたりする。

だけど、私は不幸に浸る趣味はなかった。だから、その状態から脱しようと決めた。不幸というのは、いつか終わりにしなければならないものだからだ。(『あなたを想う花』上巻、8頁)

 

しかも店員さんの手作りのお花の栞までついていた。

久々にとても素敵な、良い買い物ができた。

 

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嫌なことぜんぶ忘れる味

お昼ごろ、夫からLINEが届いた。

「お仕事を早く終えられそうだから、時間が合えば家の近所をお散歩しよう」とのこと。

一日じゅう家にいた私は少しオシャレをして、18:00ごろに一緒に外濠の辺りをお散歩した。

最近は、梅雨前になると少し気温が上がって初夏みたいな陽気が続く。

今日だって夕方なのにも関わらず外はけっこう暑くて、半袖姿の人たちも沢山見かけた。

この日、極暖のヒートテックを着ていた人間はたぶん私しかいなかったんじゃないかと思う。

 

帰り道に、小綺麗でほどほどに繁盛していて、店員さんの接客もとても丁寧な、お気に入りのラーメン屋さんに寄った。

私たちの隣のテーブルに、大学生と思わしき3人組が座った。

そのうちの1人の男の子がラーメンを啜りながら、こう言った。

「はぁ〜嫌なことぜんぶ忘れるわあ」

こういう素直な温かい気持ちを、躊躇いなく口に出すことはすごく大切だと思った。

現に、彼とは何の接点もない私の心を今もまだ、その言葉が温め続けているのだから。

 

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痛みがコントロールできないときに

歳を重ねれば重ねるほど、傷に過敏になる。小さな傷が増えるだけかもしれない。

 

料理をすれば指を切る。

執務室で机に脚をぶつける。

知り合いが増えて別れが生まれる。

自分を保護していた膜は成長とともに剥がれて、傷にさらされる機会が多くなる。

 

痛みを感知して自分と向き合う。身体との付き合い方や距離感を考えて、コントロールに励む。コントロールするという名目で、自分を騙す技術ばかり上達する。

 

ハン・ガンの『回復する人間』を読んだ。

彼女の作品には一貫して、衰弱が詩的に描き出されている。

この作品は痛みを伴いながら回復に向かう人間たちがテーマの短編集。

出だしは「明るくなる前に」という短編で、死んだ鳥に触ろうとする子供とそれを注意する親との会話から始まる。

 

「触っちゃだめ」

「どうして?」

「死んでいるじゃない」

「死んだら触っちゃいけないの?」

 

私たちは穢れという概念を後天的に学んで、無意識に禁忌へカテゴライズする。

おそらく、自分には理解しえない全くの別物だと感じるから。

排除して隅に追いやって、最初から存在しなかったかのように振る舞うのが合理的な対処だと信じ込む。

 

ページをめくると、葬式のシーンに移り変わる。

主人公の友人は、自分が弟の腹膜炎に気づかなかったせいで彼を死なせたと後悔する。

弟が腹痛を訴えた際に、時間がないから自分でタクシーを拾って病院に行くよう促してしたのだ。

物語の後半で、この後悔に対して主人公はこんな言葉を思い浮かべる。

 

「そんなふうに生きないで、私たちに過ちがあるとすれば、初めから欠陥だらけで生まれてきたことだけなのに。(中略)誰の非難も信じないで」

 

主人公は実際にこの慰めを口にすることができないまま、その友人を事故で喪う。

彼女は自分の分のみならず、友人の分も、後悔、苦痛、自責の念を引き受ける。

思い出をつぶさに並べ立て、噛みしめるように回想したのちに、回復へと向かっていく。

 

エウロパ」も良かった。

主人公の青年は女性になりたいし、男性として女性を愛している。

憧れの女性にセットをしてもらい、女装して街を歩く間、ひたすら周囲の視線に耐える。

彼女の厚意に甘んじながら、彼女が元夫から受けた(おそらく精神的な)暴力を想像する。

 

自分の傷を忌み嫌うだけでは、永遠に痛みはまとわりつく。

自分自身に感じる倒錯や不安定さ、他人からの奇異の眼差しをありのままに受け入れないと、感じている痛みを軽減することはできない。

ただ、他人の痛みを想像して引き入れることで、自分の痛みを感知しやすくなることはある。

回復には痛みは伴うけれど、孤独に戦わなければいけないわけではない。

人は想像力さえあれば、孤独になることはない。

 

 

回復する人間 (エクス・リブリス)

回復する人間 (エクス・リブリス)

 

 

 

余所者になりきって、より多くを見る(ソール・ライター写真展)

見慣れている街に雪が降ったとする。そんなとき、みんなはどういう狙いでカメラを構えるのだろう。白く塗り替えられていくアスファルトとか、手を冷やしながら作った雪だるまとか、自分にもたらした感動と対峙して、画角に収めようとするはずだ。だから、ネットで見つけたこの写真は目を引いた。

 

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Postmen, 1952, by Saul Leiter.

 

私のカメラロールを開くと、少しの手間で育ったポトス、休日を一緒に過ごす人、悲しくなったときに尋ねる川べりの画像が並んでいる。いつも、自分と被写体の間には必ず物語がある。instagramに流れてくるカプチーノの写真には、紛れもなく「カフェに来た私」がそこにいる。映しているものと自分は無関係です、なんて言いきることはできない。上記のような写真を撮ってしまう、ソール・ライターは別だけれど。

 

9/11、久々に渋谷へ出た。空には太陽の光が満ちているのに、突然雨が降り出したりして面白い天気だった。日本中の若者たちはここに追いやられていたんだと思うくらい多くの同年代、もしくは少し年下の人たちとすれ違った。みんな棒のように細くてしなやかで、綺麗だった。

 

Bunkamuraでアンコール開催されている、ソール・ライター展に足を運んだ。

彼の写真は鉄の柵とか、雨に濡れたガラス窓とかの遮蔽物越し、もしくはかなり遠くから見ず知らずの人を撮っているような、対象との距離を感じさせる構図のものが多い。ほとんどがまるで盗撮のようなアングルだ。撮影者は完全な余所者として姿を消している。

自分の姿を消すことで、何が可能になるのか。

音や風といった、ありのままの情景を四角い枠に収めて、決定的瞬間を捉えることができる。

実際にライターの写真を眺めてみればわかる。彼の写真はNYの雑踏が聞こえてきそうな臨場感がある。そこには撮影者の気配が無いからこそ、鑑賞者は遠慮せずに自分を忍び込ませることができる。

 

ライターは絵を描くことも好きだったようだけれど、最終的に写真のほうを選んだ。

たぶん写真にできて絵画にできないことは、偶然性の発見だ。

何も期待をせず、状況だけをまっさらな心で見ることによって、些細な違和感に気が付いてより多くの発見が生まれる。

自分が重要だと思っていたことは全然大した出来事なんかじゃなくて、もっと様々なことが数えきれないほど身の回りで起きているものだ。

ライターは厳格な両親から逃げるように家を飛び出し、28歳でニューヨークの東10丁目のアパートに移り住んでから、死ぬまでずっと同じ部屋に住み続けた。無理に変わろうとか、何かを得ようとか思わなくていい。沢山の偶然を見つけながら人生を重ねることが出来たら、もっと自由に生きていいのだと自分を納得させることができるのかもしれない。彼の写真はすべて、そんな安心感を与えてくれるような温かみがある。

ウエルベック『セロトニン』

「ぼくは一人の女性を幸せにできたかもしれない」

ウエルベックといえば、愛が手に入らないことの苦しみを書く作家。

上記の一節は本作品からの抜粋で、ウエルベック文学の集大成ともいえる本書の内容がよくまとめられた一文だと思う。

物語はエリート階級に属する日本人女性ユズとの別れを皮切りに、かつて愛した女性たちとの別れ、両親との別れ、親友との別れをプルーストの小説よろしく並び立て、展開させる(現に本書ではプルーストへの言及がなされている)。

今までの作品と違う点は、登場人物たちは一切愛情やつながりを求めることはせず、絆を諦め続けるストーリーであるということだ。

ただし、諦めてもなお、さらなる絶望が襲い掛かる。主人公フロランは今まで築き上げた思い出にとらわれ、苦しめられる。彼に残された救いは小さな抗うつ剤、キャプトリクスしかない。鬱病患者の処方薬依存の描写にはかなりのリアリティがある。

 

また、ウエルベックの作品は現代社会をよく映しだす鏡のようでもある。

主人公は農業技官であり、親友エムリックはフランスで良心的な農家を営む、両者とも上流階級出身の人間だが、同じようにフランス一次産業の衰退のあおりを食らって没落してゆき、ストーリーは目も当てられないほど悲惨な方向へ進んでゆく。

これは決してフィクションの中だけの話ではない。

実際、自由貿易がフランスの農業を壊滅させたおかげで農家の離職率や自殺率は高まる一方で、実際平均二日に一人が自殺し、農業従事者は半分になるだろうと予測されている。

 

現代で社会的階級を得たとしても経済は思っている以上のスピードで移ろい、安定は存在せず、誰しもが孤独と対峙しながら生きながらえていなればならない。

 

一点、個人的にウエルベックを擁護(?)したい点がある。彼は差別的作家とレッテルを貼られ、批判されている意見を目にすることも少なくない。

この作品でも日本人女性のユズを「日本人は顔を赤らめない、精神構造上は存在しているが、結果はむしろ黄土色がかった顔になる」とか「日本人女性にとって〔…〕西欧人と寝るのは、動物と性交するようなものだ」だとか、どこからサンプルを持ってきたのか分からないような描写がある。

実際、ウエルベック作品は偏見に満ち溢れているけれど、仮に彼自身が偏見に満ちた右翼の国粋主義者であれば、主人公の西洋男性をこんなにも醜く、哀れで愚かしく描くことはない。ウエルベックは偏見に染まった西洋の中年男性を鋭いまなざしで観察し、描写することによって批判し、問題提起していると考えられる。

ただし、そのせいで前作『服従』ではイスラームを揶揄する発言のせいで警察の保護下におかれ雲隠れしなくてはならないような状況になったり、メルケルが移民受け入れを提起した際に『服従』が引き合いに出されて反論されたこともあるので、こういった点は今後の文学界でも追及するべき興味深い点かもしれない。