日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

余所者になりきって、より多くを見る(ソール・ライター写真展)

見慣れている街に雪が降ったとする。そんなとき、みんなはどういう狙いでカメラを構えるのだろう。白く塗り替えられていくアスファルトとか、手を冷やしながら作った雪だるまとか、自分にもたらした感動と対峙して、画角に収めようとするはずだ。だから、ネットで見つけたこの写真は目を引いた。

 

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Postmen, 1952, by Saul Leiter.

 

私のカメラロールを開くと、少しの手間で育ったポトス、休日を一緒に過ごす人、悲しくなったときに尋ねる川べりの画像が並んでいる。いつも、自分と被写体の間には必ず物語がある。instagramに流れてくるカプチーノの写真には、紛れもなく「カフェに来た私」がそこにいる。映しているものと自分は無関係です、なんて言いきることはできない。上記のような写真を撮ってしまう、ソール・ライターは別だけれど。

 

9/11、久々に渋谷へ出た。空には太陽の光が満ちているのに、突然雨が降り出したりして面白い天気だった。日本中の若者たちはここに追いやられていたんだと思うくらい多くの同年代、もしくは少し年下の人たちとすれ違った。みんな棒のように細くてしなやかで、綺麗だった。

 

Bunkamuraでアンコール開催されている、ソール・ライター展に足を運んだ。

彼の写真は鉄の柵とか、雨に濡れたガラス窓とかの遮蔽物越し、もしくはかなり遠くから見ず知らずの人を撮っているような、対象との距離を感じさせる構図のものが多い。ほとんどがまるで盗撮のようなアングルだ。撮影者は完全な余所者として姿を消している。

自分の姿を消すことで、何が可能になるのか。

音や風といった、ありのままの情景を四角い枠に収めて、決定的瞬間を捉えることができる。

実際にライターの写真を眺めてみればわかる。彼の写真はNYの雑踏が聞こえてきそうな臨場感がある。そこには撮影者の気配が無いからこそ、鑑賞者は遠慮せずに自分を忍び込ませることができる。

 

ライターは絵を描くことも好きだったようだけれど、最終的に写真のほうを選んだ。

たぶん写真にできて絵画にできないことは、偶然性の発見だ。

何も期待をせず、状況だけをまっさらな心で見ることによって、些細な違和感に気が付いてより多くの発見が生まれる。

自分が重要だと思っていたことは全然大した出来事なんかじゃなくて、もっと様々なことが数えきれないほど身の回りで起きているものだ。

ライターは厳格な両親から逃げるように家を飛び出し、28歳でニューヨークの東10丁目のアパートに移り住んでから、死ぬまでずっと同じ部屋に住み続けた。無理に変わろうとか、何かを得ようとか思わなくていい。沢山の偶然を見つけながら人生を重ねることが出来たら、もっと自由に生きていいのだと自分を納得させることができるのかもしれない。彼の写真はすべて、そんな安心感を与えてくれるような温かみがある。