日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

楽しいことを集める

私は体力が人の半分しかない。

「だんだん暑く(寒く)なってきた」という感覚もない。急に汗びっしょりになったり震えだしたりするし、誰かと一緒にカフェに入ったらBGMと目の前で話している人と隣のテーブルで話している人の声をすべて同じ音量で拾う(注意の調整がうまくできない)ので、まあ疲れる。

人とペースを合わせることも大の苦手だし、不得意なことを挙げたらまあキリがない。

そんな私は昨年度に結婚、転居、異動、式と披露宴を経て(ほとんど夫が段取りしてくれた)、いまだ疲労を引きずっているので、今年のGWは遠出はせずに自宅の周りを散歩したり読書したりしていた。

 

我が家から徒歩10分ほど歩いた場所に、青々と広がる緑地がある。

高さや太さの異なる木々が林立している、あたかも森のような地帯だ。

ここは都心なので、連休中は特に人の気配が無くて良い。

誰もいない涼しい木立を歩いていると、澄んだ鐘の音があたりに響き渡った。

四ツ谷にある、聖イグナチオ教会の鐘の音だ。

この音をすぐに認識できるようになった自分は、ようやく街の一員になれたようで嬉しかった。

 

今年のGWは天気が良かった。

木洩れ日の中で、モンシロチョウやアゲハチョウが心地よさそうに舞っていた。

公園のベンチに腰かけて、葉擦れの音に耳を澄ませながら読書をした。

後ろでカサ、カサという、明らかに生き物が落ち葉を踏んでいる音が聴こえたので振り向くと、くちばしの黄色い小鳥が楽しそうに土の上を歩いていた。

Google検索によると、どうやらツグミという鳥らしい。

生き物の名前を知ったことにより、少し地域の自然に近づいた気がして嬉しかった。

帰り道に、夕陽を浴びて黄金色に輝くポメラニアンが正面からやってきたので、百点満点の休日だと思った。

 

人より苦手なことが沢山あるならば、無理して遠くを目指さなくても大丈夫だと思う。

”楽しいことは身近に沢山散らばっている” ということに気が付けた、有意義な連休を過ごすことができた。

 

 

週末のんびりクラブ

労働者8年目ともなると賃金による自分の甘やかし方も大分上達したもので、仕事が終わったら電車に7、8分揺られるだけでふかふかソファにダイブできる仕組みを作るべくお家を買いました。そして玄関でルンバの自殺の第一発見者となります。うちのルンバは3日に1回は廊下から靴置き場によくダイブしてしまう結構ダメな子ですが、私はそのルンバを上回るダメな大人なので放置してリビングへ向かいます。

しばらくすると夫も帰ってきて、ルンバの自殺の第二発見者(こんな言葉はあるのか?)となります。夫は心優しい人なのでいつもルンバを救ってあげています。

そんな優しい夫はいつも心に余裕があってのんびりしています。

今週末、私が社内公募でもチャレンジしようと思って帰宅後うなりながらパソコンを叩いていたら優しい夫がルンバだけでなく私にも救いの手を差し伸べてくれました。

「挑戦は前向きなことだし応援したいけれど、エントリーシートを作っている時点でそんなにつらいんならやめちゃっても良いんじゃないかな。書類が通った後は面接だってあるし、受かったらレナちゃんはそこで仕事をするんだよ。いつだって今が楽しいのが大切だよ」

こういう言葉を夫からかけてもらえる度に私は、人と一緒に暮らすことの素晴らしい点は自分の素直な気持ちに目を向けやすくなることだとしみじみ思うのです。

確かに管理職の圧に押されて「挑戦は素晴らしい、キャリアアップを目指すべき」と思い込んでいたようですが、エントリーシートの筆が進まない時点で自分の気持ちは火を見るより明らかです。

「評価されなくったって良いんだよ。週末は一緒にお散歩してかもめ食堂でも観ようよ」

と、読んでいた変なタイトルの本を傍らに置き、私に電気毛布を掛けながら私の欲しい言葉をかけてくれる夫は紛れもなく優しい人間で、こういう時に私はこの人と結婚して良かったと実感するのです。

 

そういうわけで週末はお天気日和だったので上野公園までお出かけし、二人で異常に太った鳩の大群を見ました。

鳥が大群で大空を旋回する姿は、なかなか目を奪われます。
しばらく歩いていると見事な黄金の木の下で真っ白な着物を着た女の子が写真を撮っていました。

12月ってこんなに木が輝いていたっけ?

子供の頃はもっと、葉が落ちて枝だけになっていた気がする……。

でも何より一本の木の変化に気づいて、子供時代に思いを馳せる余裕が生まれたことが嬉しい。

 

やがて日が暮れてきたので帰宅し、アマプラに入っていたかもめ食堂を観て、キャンドルを灯して二人でぼうっと火を眺めてみるなどしました。

炎に照らされるミッフィーちゃん……。

 

私は一人だといろいろ考えてしまい追われている気持ちになってのんびりすることはできないけれど、二人だと敢えて「のんびりするための行為」を取ることができるので、心が安らぐのだと思います。

心を休めるためには、心を休める行動を取ること、そして現状を慈しむことが大切ですね。

また来週も週末のんびりクラブを開催することにします。

半年で5kg痩せた話

 自粛開始の3月から半年で5kg痩せた。その後1kgほど増えて、昨年比-4kgで着地しそう。

100kg→95kgになるのと40kg→35kgになるのとでは話が違うので、参考までにBMI指数*1で言うと、ピーク時19.8→17.7まで減った。

 

誤解しないでほしいのが、私は運動が嫌いだし、あらゆる我慢も大嫌いで、誘惑に弱い。

でも、減量に苦労した覚えはあまり無い。

どれだけストレスを溜めずに自分を管理できるかが一番のポイントになると思う。

いつも女子会とかでコツを訊かれても言い淀んじゃうので(言い方によっては「え~私ダイエットで苦労したことありませーん」みたいな嫌味になりかねない。web漫画の題材にされても文句は言えない……)、自分が日々心掛けていたことを棚卸がてらここにひっそりまとめておく。

 

①毎日食事記録をつける。

これすごく大事。この行為の肝は、食事のたびに摂取カロリーをどこで消費するのか考える点にあると思う。

まずはダイエット管理アプリをインストールして、目の前の料理を美味しく食べる。

その後、食べたものを記録する。

間食したくなったら躊躇なくする。そして必ず記録する。

段々、自分で思っている以上の食事量を摂っていた事実が見えてくる。このギャップは大きければ大きいほど埋め甲斐があって良い。

記録しながら、この質量を一体どこで打ち消すのか考える。

すると、毎食ごとに「私にこの食事量を摂る資格があるのかな……」と葛藤が芽生えるようになる。

簡潔に言えば、後悔を生み出すための作業です。後悔が無いと学びも生まれないと思う。 

 

②痩せたい理由を明確にする。

受験勉強や習い事を経験した人なら分かるだろうけど、自分の中に明確な目標が無いとモチベーションは保てない。

親切な人が「ダイエットの調子はどう?」とか聞いてくれても「あ、全然はかどらないんですよね~笑」で終わる。

たとえ身内や近しい人に「太った?」と言われても、「そう?」で終わる。下手したら「失礼なヤツだな~」って受け取っちゃうので誰も幸せにならない。みんな不幸になって終わり。

結局何が言いたいかと言うと、外部からの働きかけなんて、自分の内から沸き起こる食欲と天秤にかけたら大差で負ける。

自分の中に理由付けが無いと、誘惑に打ち勝つことなんてできるわけがない。

健康が気になるから、とか、このタレントみたいになりたい、とか、何でもいいから自分の中の理由付けは大切にしたほうが良い。

 

③好きじゃない健康食品を間食にする。

砂糖には中毒性がある。てことは甘いものを一度断ってしまえば、負の連鎖から抜け出す道は開ける*2

 

道は開ける 文庫版

道は開ける 文庫版

 

 

 

ただ、「しない」ように心がけるのは案外難しい。だから、間食したくなったらあまり好きじゃない健康食品(バナナ、ナッツ、ヨーグルト、小魚等)に置き換えてしまうのが良い。

私の場合はナッツ類が苦手だった。

間食のたびにナッツを口に運ぶようにしていたら、やがて「ナッツを食べるくらいなら何も食べないほうがマシか……」という気になって間食が止まった。

 

④(プチ)断食してみる。

空腹状態というのは慣れれば心地よくなるもので、頭は冴えるし、身体は身軽になるし、眠たくならないし、良いことずくめだった。

身体の健康にもメンタルの落ち込みにも効くらしく、「断食 効果」とかでググったらその手の専門家たちがたくさん知識を提供してくれる。なんでも腸を休めるのが健康に良いとかなんとか。

私の場合は一日中何も食べないのがしんどかったので、調子のいい日は一日一食だけにしていた。サラダと玉子だけの日もあった。プチ断食(12~16時間何も食べない)とも言うらしい。

おかげで胃が小さくなったのか、以前よりもあまり食べ物が入らなくなった。

あとこれは完全に副産物だけれど、一食抜くだけで時間がかなり浮いた。自分の中の「そろそろ食事の時間だから」という時間的な縛り(?)のようなものからも解放された。

 

⑤食事後は即、散歩をするか半身浴をする。

これはダイエット効果を期待してというより、体調を崩したら元も子もないから、という意識でやっていた。特に散歩は効果がある。なんだか気持ちが晴れないときに、イライラすることや悩みを思い浮かべながら超早歩きで散歩すると、気分がだいぶ晴れやかになる。

結局代謝も良くなって、ダイエット効果をより高めてくれたんだと思う。

 

⑥体重を毎日記録する。

減っていると、「この努力を無駄にしない……」と前向きになれる。

太っていたら、誤差だと思うようにする。次の日一食分抜けば、どうせ1kgくらいは余裕で減るのだから。

 

⑦どうしても耐えられなくなったら、間食をする。

たとえ体重が増えていたとしても、ストレスを感じたら間食をしたほうが絶対良い。

何度も言うけれど心身に負担をかけて、体調を崩したら元も子もない。私はプチ断食中でも、つらさを感じたらクッキーやドーナツを食べていた。ラーメンだって食べた。別に少し甘いものを食べたり一食分だけ増えたりしても、体重が急増することはない。

 

ここに書いたものを見返すと、結局は食事管理と適度な運動を心がけていたんだなあ、とつくづく分かった。成功の鍵はマイルールを細分化して、システマティックに運用したことにあったと思う。習慣の力は大きい。あとはストレスを溜めないことが一番。ストレスを抱えるってことはその分人生を損していることに等しい。

 

結論:イライラするダイエットは続かない。

*1:BMI = 体重kg ÷ (身長m)2

*2:かつて一世を風靡した自己啓発本。どれほどの道が日本に開けてしまったのだろう

痛みがコントロールできないときに

歳を重ねれば重ねるほど、傷に過敏になる。小さな傷が増えるだけかもしれない。

 

料理をすれば指を切る。

執務室で机に脚をぶつける。

知り合いが増えて別れが生まれる。

自分を保護していた膜は成長とともに剥がれて、傷にさらされる機会が多くなる。

 

痛みを感知して自分と向き合う。身体との付き合い方や距離感を考えて、コントロールに励む。コントロールするという名目で、自分を騙す技術ばかり上達する。

 

ハン・ガンの『回復する人間』を読んだ。

彼女の作品には一貫して、衰弱が詩的に描き出されている。

この作品は痛みを伴いながら回復に向かう人間たちがテーマの短編集。

出だしは「明るくなる前に」という短編で、死んだ鳥に触ろうとする子供とそれを注意する親との会話から始まる。

 

「触っちゃだめ」

「どうして?」

「死んでいるじゃない」

「死んだら触っちゃいけないの?」

 

私たちは穢れという概念を後天的に学んで、無意識に禁忌へカテゴライズする。

おそらく、自分には理解しえない全くの別物だと感じるから。

排除して隅に追いやって、最初から存在しなかったかのように振る舞うのが合理的な対処だと信じ込む。

 

ページをめくると、葬式のシーンに移り変わる。

主人公の友人は、自分が弟の腹膜炎に気づかなかったせいで彼を死なせたと後悔する。

弟が腹痛を訴えた際に、時間がないから自分でタクシーを拾って病院に行くよう促してしたのだ。

物語の後半で、この後悔に対して主人公はこんな言葉を思い浮かべる。

 

「そんなふうに生きないで、私たちに過ちがあるとすれば、初めから欠陥だらけで生まれてきたことだけなのに。(中略)誰の非難も信じないで」

 

主人公は実際にこの慰めを口にすることができないまま、その友人を事故で喪う。

彼女は自分の分のみならず、友人の分も、後悔、苦痛、自責の念を引き受ける。

思い出をつぶさに並べ立て、噛みしめるように回想したのちに、回復へと向かっていく。

 

エウロパ」も良かった。

主人公の青年は女性になりたいし、男性として女性を愛している。

憧れの女性にセットをしてもらい、女装して街を歩く間、ひたすら周囲の視線に耐える。

彼女の厚意に甘んじながら、彼女が元夫から受けた(おそらく精神的な)暴力を想像する。

 

自分の傷を忌み嫌うだけでは、永遠に痛みはまとわりつく。

自分自身に感じる倒錯や不安定さ、他人からの奇異の眼差しをありのままに受け入れないと、感じている痛みを軽減することはできない。

ただ、他人の痛みを想像して引き入れることで、自分の痛みを感知しやすくなることはある。

回復には痛みは伴うけれど、孤独に戦わなければいけないわけではない。

人は想像力さえあれば、孤独になることはない。

 

 

回復する人間 (エクス・リブリス)

回復する人間 (エクス・リブリス)

 

 

 

余所者になりきって、より多くを見る(ソール・ライター写真展)

見慣れている街に雪が降ったとする。そんなとき、みんなはどういう狙いでカメラを構えるのだろう。白く塗り替えられていくアスファルトとか、手を冷やしながら作った雪だるまとか、自分にもたらした感動と対峙して、画角に収めようとするはずだ。だから、ネットで見つけたこの写真は目を引いた。

 

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Postmen, 1952, by Saul Leiter.

 

私のカメラロールを開くと、少しの手間で育ったポトス、休日を一緒に過ごす人、悲しくなったときに尋ねる川べりの画像が並んでいる。いつも、自分と被写体の間には必ず物語がある。instagramに流れてくるカプチーノの写真には、紛れもなく「カフェに来た私」がそこにいる。映しているものと自分は無関係です、なんて言いきることはできない。上記のような写真を撮ってしまう、ソール・ライターは別だけれど。

 

9/11、久々に渋谷へ出た。空には太陽の光が満ちているのに、突然雨が降り出したりして面白い天気だった。日本中の若者たちはここに追いやられていたんだと思うくらい多くの同年代、もしくは少し年下の人たちとすれ違った。みんな棒のように細くてしなやかで、綺麗だった。

 

Bunkamuraでアンコール開催されている、ソール・ライター展に足を運んだ。

彼の写真は鉄の柵とか、雨に濡れたガラス窓とかの遮蔽物越し、もしくはかなり遠くから見ず知らずの人を撮っているような、対象との距離を感じさせる構図のものが多い。ほとんどがまるで盗撮のようなアングルだ。撮影者は完全な余所者として姿を消している。

自分の姿を消すことで、何が可能になるのか。

音や風といった、ありのままの情景を四角い枠に収めて、決定的瞬間を捉えることができる。

実際にライターの写真を眺めてみればわかる。彼の写真はNYの雑踏が聞こえてきそうな臨場感がある。そこには撮影者の気配が無いからこそ、鑑賞者は遠慮せずに自分を忍び込ませることができる。

 

ライターは絵を描くことも好きだったようだけれど、最終的に写真のほうを選んだ。

たぶん写真にできて絵画にできないことは、偶然性の発見だ。

何も期待をせず、状況だけをまっさらな心で見ることによって、些細な違和感に気が付いてより多くの発見が生まれる。

自分が重要だと思っていたことは全然大した出来事なんかじゃなくて、もっと様々なことが数えきれないほど身の回りで起きているものだ。

ライターは厳格な両親から逃げるように家を飛び出し、28歳でニューヨークの東10丁目のアパートに移り住んでから、死ぬまでずっと同じ部屋に住み続けた。無理に変わろうとか、何かを得ようとか思わなくていい。沢山の偶然を見つけながら人生を重ねることが出来たら、もっと自由に生きていいのだと自分を納得させることができるのかもしれない。彼の写真はすべて、そんな安心感を与えてくれるような温かみがある。

ウエルベック『セロトニン』

「ぼくは一人の女性を幸せにできたかもしれない」

ウエルベックといえば、愛が手に入らないことの苦しみを書く作家。

上記の一節は本作品からの抜粋で、ウエルベック文学の集大成ともいえる本書の内容がよくまとめられた一文だと思う。

物語はエリート階級に属する日本人女性ユズとの別れを皮切りに、かつて愛した女性たちとの別れ、両親との別れ、親友との別れをプルーストの小説よろしく並び立て、展開させる(現に本書ではプルーストへの言及がなされている)。

今までの作品と違う点は、登場人物たちは一切愛情やつながりを求めることはせず、絆を諦め続けるストーリーであるということだ。

ただし、諦めてもなお、さらなる絶望が襲い掛かる。主人公フロランは今まで築き上げた思い出にとらわれ、苦しめられる。彼に残された救いは小さな抗うつ剤、キャプトリクスしかない。鬱病患者の処方薬依存の描写にはかなりのリアリティがある。

 

また、ウエルベックの作品は現代社会をよく映しだす鏡のようでもある。

主人公は農業技官であり、親友エムリックはフランスで良心的な農家を営む、両者とも上流階級出身の人間だが、同じようにフランス一次産業の衰退のあおりを食らって没落してゆき、ストーリーは目も当てられないほど悲惨な方向へ進んでゆく。

これは決してフィクションの中だけの話ではない。

実際、自由貿易がフランスの農業を壊滅させたおかげで農家の離職率や自殺率は高まる一方で、実際平均二日に一人が自殺し、農業従事者は半分になるだろうと予測されている。

 

現代で社会的階級を得たとしても経済は思っている以上のスピードで移ろい、安定は存在せず、誰しもが孤独と対峙しながら生きながらえていなればならない。

 

一点、個人的にウエルベックを擁護(?)したい点がある。彼は差別的作家とレッテルを貼られ、批判されている意見を目にすることも少なくない。

この作品でも日本人女性のユズを「日本人は顔を赤らめない、精神構造上は存在しているが、結果はむしろ黄土色がかった顔になる」とか「日本人女性にとって〔…〕西欧人と寝るのは、動物と性交するようなものだ」だとか、どこからサンプルを持ってきたのか分からないような描写がある。

実際、ウエルベック作品は偏見に満ち溢れているけれど、仮に彼自身が偏見に満ちた右翼の国粋主義者であれば、主人公の西洋男性をこんなにも醜く、哀れで愚かしく描くことはない。ウエルベックは偏見に染まった西洋の中年男性を鋭いまなざしで観察し、描写することによって批判し、問題提起していると考えられる。

ただし、そのせいで前作『服従』ではイスラームを揶揄する発言のせいで警察の保護下におかれ雲隠れしなくてはならないような状況になったり、メルケルが移民受け入れを提起した際に『服従』が引き合いに出されて反論されたこともあるので、こういった点は今後の文学界でも追及するべき興味深い点かもしれない。

 

 

魅力的な文章ってなんですか

最近、社内文書を褒められて「つまらない文章が染みついたのかも」と不安になった。

私にとって魅力的な文章とは、誠実な文章に他ならないと思っているからです。

とはいえ勤務態度は誠実なつもりだし、社内文書を村上春樹チックにまとめ上げたいわけでもない。

ここでいう誠実さとは、自分自身の言葉から離れていないこと。つまり紋切り型の言葉を乱用しているような文章はとにかく味気のない、借り物の言葉を切り貼りしただけの不誠実な文章なのです。

人生初心者なら背伸びだって物まねだって良いけれど、私もう20代後半なわけだし、平安時代だったら寿命を迎えている年齢だし……。

でも悩んでいるのもつかの間、私は文章のスペシャリストにわりと精通しています。

そう、文豪たちです。

文豪なら人生の先輩だし、書物と私はけっこう距離感近いから、いろいろ教えてもらえるよね。

そんなわけで誠実な文章について考察すると、主に3パターンの分類ができました。

 

話し言葉に誠実に書かれているパターン

例えば谷崎潤一郎春琴抄』は言うまでもなく美文の作品として親しまれているけれど、その割に読んでみるとラフな印象。

これは作品がまるで話し言葉のように書かれているために、書き手の感覚が直に染み込んでくるような面白さを湛えています。

技術的なことでいえば、体言止めが乱用されているからだと思う。

現代の日本語の文体って末尾は助動詞の活用に依存してるから、体言止めがもっとたくさん使われるようになったら文体の幅が増えるのかもね。

 

②文章から文章への跳躍が巧みなパターン

例えば太宰治中井英夫といった作家は文章間の跳躍がとっても巧みです。本来なら冗長になりかねない文章をスパッと切って、次の一文で着地させ、滋味深さを残します。この勇気はなかなか出ない。

以下は太宰の『駆け込み訴え』のラストの文章。

「金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」

冗長な説明は一切ないのに十分な卑しさを演出しつつ、最後に「お前か……!」と読者に激しい揺さぶりをかけたまま作品を終わらせる豪快さ。太宰って女々しい男だと思っていたけれど、文章に関しては案外潔さがあるのね。

もうひとり例に挙げた中井英夫に関しては、文章を書くことに関して

「手を一閃して虚空からバラを掴みだす」

行為だと述べているんだけれど、もう名言すぎて息が止まっちゃうよね。ていうかここ読んでる人はこの一文さえ覚えてくれればそれで良いです。

薔薇の詩人といえばリルケだけれど、薔薇の小説家といえば中井英夫で間違いなし。

 

③文章が饒舌なパターン

よどみない文章は読んでいて気持ちいい。自分の中に教養を詰め込むと最終形態はこの隙を与えない爽快な文章になるのだと思う。

たとえば樋口一葉なんか文語調で書いているのにとにかくリズミカルな文章で読んでいて全く苦にならない。どの作品も下町情緒がのびやかに描写されていて微笑ましい。

久生十蘭なんかはすごい、『魔都』なんかは壮麗な文章なのに気取ったところが一切なくてドライヴ感があってぐんぐん読める。すごく質の良い日本酒みたい。

 

だいたいこれらのどれかに当てはまっていれば人を惹きつける文章が書けると思う。

どれにも共通して言えることは、文の調子が一貫していること。

やっぱり文体が定まっていると安心してグングン読めるし文章の説得力も増す。

 言語学者ソシュールさんだって「どんな文体を使うか選べ。それがお前のキャラクターとなる」みたいなこと言ってたしね。

 そういえばサラリーマンになってFacebookの投稿が「~である」みたいな文体のひと増えたよね、「えっそんな喋り方してたっけ」みたいな。学生の頃はもっと楽しそうな文章で投稿していたじゃない、みたいな。

そんな他人の言葉でガチガチに固めた文章じゃなくて、もっとその人独自の言葉遣いや表現に触れてみたいなあと思う。

それでも一応ポストされた投稿は全部読んじゃう。

考えたことを言葉にしてアウトプットすること自体が誠実さへの第一ステップだと思うから。