日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

魅力的な文章ってなんですか

最近、社内文書を褒められて「つまらない文章が染みついたのかも」と不安になった。

私にとって魅力的な文章とは、誠実な文章に他ならないと思っているからです。

とはいえ勤務態度は誠実なつもりだし、社内文書を村上春樹チックにまとめ上げたいわけでもない。

ここでいう誠実さとは、自分自身の言葉から離れていないこと。つまり紋切り型の言葉を乱用しているような文章はとにかく味気のない、借り物の言葉を切り貼りしただけの不誠実な文章なのです。

人生初心者なら背伸びだって物まねだって良いけれど、私もう20代後半なわけだし、平安時代だったら寿命を迎えている年齢だし……。

でも悩んでいるのもつかの間、私は文章のスペシャリストにわりと精通しています。

そう、文豪たちです。

文豪なら人生の先輩だし、書物と私はけっこう距離感近いから、いろいろ教えてもらえるよね。

そんなわけで誠実な文章について考察すると、主に3パターンの分類ができました。

 

話し言葉に誠実に書かれているパターン

例えば谷崎潤一郎春琴抄』は言うまでもなく美文の作品として親しまれているけれど、その割に読んでみるとラフな印象。

これは作品がまるで話し言葉のように書かれているために、書き手の感覚が直に染み込んでくるような面白さを湛えています。

技術的なことでいえば、体言止めが乱用されているからだと思う。

現代の日本語の文体って末尾は助動詞の活用に依存してるから、体言止めがもっとたくさん使われるようになったら文体の幅が増えるのかもね。

 

②文章から文章への跳躍が巧みなパターン

例えば太宰治中井英夫といった作家は文章間の跳躍がとっても巧みです。本来なら冗長になりかねない文章をスパッと切って、次の一文で着地させ、滋味深さを残します。この勇気はなかなか出ない。

以下は太宰の『駆け込み訴え』のラストの文章。

「金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」

冗長な説明は一切ないのに十分な卑しさを演出しつつ、最後に「お前か……!」と読者に激しい揺さぶりをかけたまま作品を終わらせる豪快さ。太宰って女々しい男だと思っていたけれど、文章に関しては案外潔さがあるのね。

もうひとり例に挙げた中井英夫に関しては、文章を書くことに関して

「手を一閃して虚空からバラを掴みだす」

行為だと述べているんだけれど、もう名言すぎて息が止まっちゃうよね。ていうかここ読んでる人はこの一文さえ覚えてくれればそれで良いです。

薔薇の詩人といえばリルケだけれど、薔薇の小説家といえば中井英夫で間違いなし。

 

③文章が饒舌なパターン

よどみない文章は読んでいて気持ちいい。自分の中に教養を詰め込むと最終形態はこの隙を与えない爽快な文章になるのだと思う。

たとえば樋口一葉なんか文語調で書いているのにとにかくリズミカルな文章で読んでいて全く苦にならない。どの作品も下町情緒がのびやかに描写されていて微笑ましい。

久生十蘭なんかはすごい、『魔都』なんかは壮麗な文章なのに気取ったところが一切なくてドライヴ感があってぐんぐん読める。すごく質の良い日本酒みたい。

 

だいたいこれらのどれかに当てはまっていれば人を惹きつける文章が書けると思う。

どれにも共通して言えることは、文の調子が一貫していること。

やっぱり文体が定まっていると安心してグングン読めるし文章の説得力も増す。

 言語学者ソシュールさんだって「どんな文体を使うか選べ。それがお前のキャラクターとなる」みたいなこと言ってたしね。

 そういえばサラリーマンになってFacebookの投稿が「~である」みたいな文体のひと増えたよね、「えっそんな喋り方してたっけ」みたいな。学生の頃はもっと楽しそうな文章で投稿していたじゃない、みたいな。

そんな他人の言葉でガチガチに固めた文章じゃなくて、もっとその人独自の言葉遣いや表現に触れてみたいなあと思う。

それでも一応ポストされた投稿は全部読んじゃう。

考えたことを言葉にしてアウトプットすること自体が誠実さへの第一ステップだと思うから。