日々

日常の癒されたこと、楽しかったことのメモ

#15 『逃亡派』を体験する

約二カ月前の話だが、自分の好きなものが分からなくなっていた。

案外ありがちな悩みだと思う。

これまで培ってきた財産が、逆に枷になっている気がした。

読書をしているときだけ

一人で好きなことを心から楽しめている気がしたので

自分の心を分析するように、

わざわざ少し読み進めては感想を記すなんて方法で

読書と少し距離を取りながら向き合ってみることにした。

実は、宮沢章夫さんが横光利一の短編小説を11年かけて読んだのを参考にしていたのだ。

けっきょく約2カ月かけて、本を読み切った。

この本には予想していた通り、終着点がなかった。

 

登場人物たちは、おのおのが心に痛みを抱えながら旅をしている。

それは思い出せない記憶が原因だったり、

体の失われた部位が原因だったりする。

つまり、存在しないものに対して痛みを感じているのだ。

 

私たちはいつも、適切な言葉を欲しているように思える。

痛みを感じるのは、不足を感じた時だ。

適切な言葉が見つかれば、心の穴にはめ込んで

痛みをごまかすことができるかもしれない。

でもそれならTwitterのように、脊柱のないテクストで構わないはずだ。

読書をしていて面白いのは、しっくりくる言葉を見つけることよりも

物語の、自分では制御しきれない波のような、

一連の流れに巻き込まれる体験ができる点なのだと思う。

読書は、自分の意識を物語に埋め込ませないと

次のページに進むことができない。

つまり、映画のように目の前を過ぎ去ってゆく「鑑賞」ではなく

紛れもない「体験」なのだ。

 

『逃亡派』の読書は、非常に内面的な、不思議な旅だった。

 トカルチュクはポーランドを「東欧」ではなく「中欧」と述べる。

ロシアと西欧に挟まれる中央ヨーロッパと呼ばれる地帯は、

実在する場所というよりも、相対的な概念のようなものであり

幻のようにつかみどころがないのだそうだ。

数奇な運命をたどってきた中欧

その地域に生まれた作家の書く物語は、

いずれも受け入れられがたく、ベストセラーにはなりがたい。

それでも、トカルチュクは母国の言語で物語を書き続ける。

 この小説は、多義的な世界を旅する、中欧風の旅行記だった。

 

この小説は、痛みと感じているものは往々にして幻想であること、

探し物は永久に見つからないけれど、

見出そうとする行為が自分自身を生み出すのだということを教えてくれた。

この小説は永久に止まらない。

面白かった。

またほかの本を体験してみようと思う。

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